所在地 長崎県平戸市岩の上町稗田
文政9年(1826)正月24日、平戸稗田に生まれる。
通称九郎佐衛門、父は純忠。
幼くして藩校維新館に入り国学、和歌を学んだ。
また、野本応斎に心形刀流の伝授を受け、11歳の時、父がなくなり家督を継いだ。
21歳頃江戸詰めとなり、橘冬照の門に入り、国学を修めた。
同門の俊才で、特に和歌に優れ、川本甚佐衛門に江戸千家流の茶道を学び奥義を極めた。
文久元治の頃、小関享らと平戸沿岸に十余箇所の砲台を構築するなど藩に大いに貢献した。
慶応3年9月、京都詰めとなる。
大政奉還、王政復古の激動の時代、藩政の中心で、奉行、刑法大判事兼藩政調掛、神学寮、元学寮を統督、慶応3年12月権少参事から大督祭、少参事を務める。
明治5年旧藩主にしたがって上京、祭祀に関する典例を修め、国幣中社住吉神社権宮司、中講義を兼補、後に宮司兼大講義となる。
明治7年5月長崎県中教院長代理、同年8月大講義となる。
明治13年3月権少教正、9月五等教督心得、明治16年8月皇典講究所委員、9月厳原神道事務分局長を歴任。
明治19年1月〜25年九十九国立銀行頭取を務める。
明治24年4月長崎県神官取締平戸支所長となり、和学教授をかねて神職教育に尽力し、その薫陶を受けたものすこぶる多い。
長崎中教院開講の折、神戸大汀とはかって平戸神楽歌を作ったことは特筆すべきである。
現在伝わっているものは、明治28年神宮式年遷宮奉祝祭で、平戸神楽を奉納した折、亀岡神社宮司神保圭介氏、同社忽代近藤義英氏が松浦家に保有してある神楽歌と浅山、神戸両氏の作を参考に改めたものである。
明治27年6月15日病死、享年67歳。
明治25年10月純尹が松浦心月公にしたがって上京の際、詠んだ歌集「須磨の月」はあまりにも有名。
参考資料:長崎新聞「長崎文化百年」(430)平戸=浅山 純尹=