鮎川 山人 土田 古弓の記念碑
鮎川家のル−ツ 現在わかっている鮎川家のル−ツは平戸市津吉町の鮎川郷に始まりその名を鮎川民部と称し、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時代、時の平戸藩主久信公に仕え、文禄征韓の役に弟の主善、頼母の両人と外に家の子郎党十八人を率いて出征し、弟二人と家来十一人が戦死した。 鮎川民部は朝鮮に渡る時、海上安全を海神に祈り、その祈願成就の為和田津美神社を奉祠したとの事である。 その後、田平に居を移し、現在に至っている。 現在わかっている先祖は 貞重(不詳)−−勝正(安永四年歿)−−正治(明治十 年歿)−−武定(寛政三年歿)−−頼重(不詳)−−近 直(文政十一年歿)−−朝典(天保十一年歿、山鹿高 道に師事し山鹿流の兵法を学)−−重明(別名国之助、 漢学者)−−山人(文政十一年生まれ、明治三十三年 歿、山鹿流の兵学者)−−文太郎(寛永六年生まれ、 昭和十一年歿)−−甚五右衛門(明治九年生まれ、昭 和十九年歿、鉱山技師、現在の鮎川邸を建てる)−−学 (昭和二十一年生まれ、現在鮎川家当主。)