鮎川 甚五右衛門

鮎川 甚五右衛門
明治9年9月6日生~昭和19年12月4日歿
熊本第五高等学校卒業
東京帝国大学工学部卒業 工学博士
東京帝国大学法学部卒業 法学博士
明治時代 藤田組に入社。北海道寿都町に銀山を開鉱。鉱山長を歴任。大正元年11月退任。その後、全国各地の鉱山を巡り、鉱山の鉱物の分析に当たる。
昭和時代 福岡県と大分県の県境の星野村に豊国金山を開鉱。その後、豊国金山を住友に売却しその財をもって、現在の鮎川家住宅の着工にかかる。
昭和11年より石垣を着工し
昭和13年 大阪市の旧市役所を設計した小川陽吉氏の設計により鮎川家住宅の建築に着工
昭和13年5月10日 石垣築就業
5月21日 小島善太郎、百合永岩太郎両頭領により大工始め
7月28日 門左側の石積終了
8月9日  門下の石垣着工
8月23日~9月1日 屋敷 地形 地ならし 床張り 土台作り コンクリ-ト打ち終了
10月7日 建家始め
10月9日 棟上げ
10月14日 瓦揚げ
10月22日 石工 石段敷着工
10月28日 左官 えつりかき
11月4日  根屋瓦葺き始め
11月7日  二階瓦葺き始め
12月3日  本石段施工
昭和14年5月15日 畳 敷き込む
6月3日~8月12日 建具建て
11月19日 新築落成式 
平戸 田口廊にて3時35分開会 
大工賃金 小島善太郎頭領  1日3円
百合永岩太郎頭領 1日2円70銭

鮎川家のルーツ

現在わかっている鮎川家のル-ツは平戸市津吉町の鮎川郷に始まりその名を鮎川民部と称し、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時代、時の平戸藩主久信公に仕え、文禄征韓の役に弟の主善、頼母の両人と外に家の子郎党十八人を率いて出征し、弟二人と家来十一人が戦死した。
 鮎川民部は朝鮮に渡る時、海上安全を海神に祈り、その祈願成就の為和田津美神社を奉祠したとの事である。 その後、田平に居を移し、現在に至っている。
 現在わかっている先祖は貞重(不詳)--勝正(安永四年歿)--正治(明治十 年歿)--武定(寛政三年歿)--頼重(不詳)--近 直(文政十一年歿)--朝典(天保十一年歿、山鹿高 道に師事し山鹿流の兵法を学)--重明(別名国之助、 漢学者)--山人(文政十一年生まれ、明治三十三年 歿、山鹿流の兵学者)--文太郎(寛永六年生まれ、 昭和十一年歿)--甚五右衛門(明治九年生まれ、昭 和十九年歿、鉱山技師、現在の鮎川邸を建てる)--学 (昭和二十一年生まれ、現在鮎川家当主。)